「台本」としてのゲノム

 さて、話をもとにもどしましょう。疑問は、発生過程で細胞はどうして分化できるのか、それぞれの場所にふさわしい細胞がどうして生まれるのか、でした。この点をスッキリさせましょう。さらに、どうして一定の形()ができてくるのかについても考えてみましょう。今までにハッキリしたのは、遺伝子が働いてさまざまなタンパク質ができ、そのおかげで、細胞が活動していけるということだと思います。

 細胞の活動には、細胞が生きていくための代謝活動の他に、分裂したり、接着したり(他の細胞とくっつくこと)、移動したり、分化したりというものが含まれます。これらの活動を支えているのが、遺伝子やタンパク質などの分子です。発生過程で、これらの活動が予定通りに進められていくので、きちんとした体ができてくるのです。したがって、疑問は、どうして細胞は適切な活動を予定通りに進められるのかというふうに言い換えられます。


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 では始めましょう。60兆個ある体細胞は、どの細胞も22000個の同じ遺伝子の一揃いをもっていることはわかりました。受精卵からそのまま受けつがれているからです。この遺伝子の一揃い(セット)をゲノムと言います。「ゲノム」という言葉は、遺伝子を表す英語(gene:ジーン)と全体を表すギリシャ語(ome:オーム)をくっつけたものです。


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 ヒトゲノムは約22000個の遺伝子からなるわけですが、重要なのは、細胞の中で働いている遺伝子はこの中のほんの一握りにすぎないという点です。それぞれの細胞は、それぞれの役割に必要な限られた遺伝子しか使っていません。同じゲノムをもつさまざまな細胞ができるのは、それぞれで使われている遺伝子が違うからなのです。

 どうしてそんなことになるのでしょうか?
地球にも暑いところ、寒いところがあるように、細胞の中身も均一ではないので、分裂の仕方によって、できた細胞の内容が異なっていることがあります。分裂してできた2つの細胞は、必ずしも同じであるとは限らないのです。
すると、この内容の違いによって、2つの細胞では、次に働く遺伝子の種類や遺伝子の転写の量が違ってくることになります。遺伝子にはそれぞれの転写を調節する部位があって、そこに分子が結合するかしないか、どんな分子が結合するかなどによって、転写が調節される仕組みになっているからです。


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 また、細胞が増えてくると、それぞれの細胞がくらす環境に違いが生まれています。環境が多様になってくるわけです。すると、周囲の細胞から受ける影響にも差が出てきます。つまり、周囲の細胞から受け取る信号の種類が違ってくるわけで、そうなるとつぎに働く遺伝子の種類にも違いが生まれてきます。


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 こうして細胞が増えるにしたがって、どんどん多様な細胞が生み出されてくるわけです。多様な細胞が生み出されると、環境はますます多様になり、さらに多様な細胞が生み出され・・・、というふうにどんどん進行していくことになります。

 しかし、この過程がいいかげんに進行したのでは、一定の形をした体は生まれてきません。予定通りに進めるには、「時刻表」のようなものがなくてはなりません。細胞は、変化していくまわりの状況を適切に判断し、この「時刻表」にしたがって遺伝子を働かせる必要があります。適切な遺伝子を働かせられれば、細胞の活動(分裂や分化、接着、移動など)が予定通りに進むので、まわりの状況もまた予定通りに変化していくことになります。すべてが予定通りに進むわけです。

 ゲノムは、発生という「演劇」を筋書き通りに進めるための「台本」と言えるでしょう。同じ演劇が何度でも上演できるのは、出演者が、状況を見ながら適切なセリフを言い、適切な演技を行えるようにするための台本があるからです。台本が単なるセリフの集合体ではないのと同じように、ゲノムも単なる遺伝子の集合体ではないのです。
ゲノムという言葉には、単なる遺伝子のセットという意味以上の、筋書き(演劇の流れ)をも含んだものという意味があるのです。


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 ゲノムについては、ヒトゲノム、ハエゲノム、イネゲノム、あなたのゲノム、私のゲノムというふうな言い方をよくします。それは、個々の遺伝子(「セリフ」)を見ているだけでは、生物間の違い、個体間の違い(あなたと私が違うわけ)がハッキリと見えてこないからで、ゲノム(「台本」)を見なければいけないというところからです。すでにさまざまな種類の生物のゲノム配列が明らかになっています。


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 また、以前、タンパク質は、細胞の耳であり、声であり、手であり、あしであり、筋肉であり、骨であり、胃や腸であると書きましたが、さらに言えば、脳とも言える細胞内の分子システム(分子が有機的に組み合わされた構造)もつくっています。それがなければ、細胞は「台本」を解釈することができません。
現在、ゲノムも含めた細胞の複雑な分子システムを理解するための研究が進められています。