Nature誌02年12月12日号の短信ニュース(news in brief, pp599)によれば、オーストラリア議会上院が、胚幹細胞研究を条件付きで認める法案を白熱の議論を経て、02年12月5日に賛成45票、反対26票で最終的に可決しました(下院では既に02年9月に可決済み)。これにより研究者は試験管内の体外受精で作られたヒトの余剰胚(surplus human embryos)を研究のために利用することが可能となり、具体的には02年4月5日以前に作製されて冷凍保存されている約7万個のヒトの胚を利用して新しい幹細胞株作りに取り組むことができるようになります。ただし、生殖目的のヒトクローニング(reproductive cloning)は、既に別の法律で禁止されています。  
   
   ヒトの胚を含めた胚幹細胞研究を認めるかどうかの問題に関するオーストラリア議会での審議は、近年にない激しい感情的論争に発展したようで、これほどの紛糾ぶりは1990年代中頃に否決された安楽死を認めようとする安楽死法案(euthanasia law)以来であるとロイター電も伝えています。そのため上院での賛否の投票は、党議の拘束が外され、各議員の「良心」に任されました。  
   
   Nature誌は、「ヒトの胚を利用する幹細胞研究に関しては、他の多くの国におけると同じように、オーストラリア政府内でも意見が分かれた」と述べ、この問題は、メルボルンのモナシ大学(Monash University)の幹細胞研究者であるアラン・トロンソン(Alan Trounson)教授の発言をめぐる騒ぎを含めてマスコミの大きな注目を浴びた」と指摘しています。  
   
 
アラン・トロンソン(Alan Trounson)教授の発言をめぐる騒ぎ
   ---斧を振りあげた政治家たち---
 
   
   トロンソン教授発言をめぐる騒ぎについては、Nature誌02年9月5日号が“Name-calling gets stem-cell researcher into hot water(幹細胞研究者、罵倒されて窮地に)”と題して既に報じています。その記事は、「研究者が研究室から呼び出されて多事争論の的になっているトピックについて証言するように求められた場合には、十分慎重になるほうがよい。著名な幹細胞研究者が、胚幹細胞研究の可能性について国民に誤解をあたえたとして非難され、目下生傷をなめている状態である」と書き出しています。  
   
   その間の事情は次のようです。メルボルンのモナシ大学発生生物学センターの所長であるトロンソン教授が、上記法案の審議の過程で議会の委員会に呼ばれ、幹細胞研究について説明を求められました。トロンソン教授は、委員会でヒトの胚幹細胞をラットに注入したら筋肉麻痺が治ったことを示すビデオを見せたのですが、注入された細胞は実は「胚幹細胞(embryonic stem cell)」ではなく、正確には「胚生殖細胞(embryonic germ cell)*」であることが、後に専門家の指摘により判明しました。また、当のビデオはアメリカのジョンズホプキンス大学のジョン・ギアハート教授**の研究室が撮影したもので、その実験結果も未発表であったようです。

* 胚生殖細胞: 胚生殖細胞は胎児組織、特に受胎後5〜10週間の胎児の生殖突起中に存在する原始生殖細胞から分離される。生殖突起は成長して睾丸または卵巣に変化し、原始生殖細胞は卵子または精子を作り出す。胚幹細胞と胚生殖細胞はともに多能性であるが、その特質や性質は同じではない。(→論文&報告→米国NIHレポート「幹細胞」→概要→[05], [06])

** ジョン・ギアハート(John Gearhart): 胎児の原始生殖細胞(=成長して卵子や精子になる細胞)と呼ばれる独立した細胞の集まりからヒト胚生殖細胞を世界で初めて取り出すことに成功した。(→論文&報告→米国NIHレポート「幹細胞」→概要→幹細胞研究の直面する課題[04])

 
   
   トロンソン教授は、胚生殖細胞を胚幹細胞と説明したことを認め、それは「議会委員会では、それまで胚生殖細胞については何も説明していなかったので、混乱を避け、説明をわかりやすくするためにあえて胚幹細胞と呼んだ。胚生殖細胞を胚幹細胞と呼ぶのは100%正しいわけではないが、胚生殖細胞も胚の細胞であり、また幹細胞でもある。両者を見分けるのは困難である」と述べています。  
   
   つまりトロンソン教授は、難解で複雑な専門的議論を避けて、素人集団である議会委員会の先生方にも理解してもらえるようにといわば説明を「はしょった」ようですが、議会での審議が感情的に紛糾している状況の中では不運なことに、結果的に「政治」の大きな渦に巻き込まれることになりました。幹細胞研究の反対派は、この間違いをここぞとばかりにとらえて、「研究者は研究結果を意図的にねじ曲げて伝えることも辞さないという明白な証拠である」と激しく非難しました。もちろんマスコミもこれに便乗しました。  
   
   ごうごうの非難の嵐の中で、当のトロンソン教授は憔悴しきって心臓の状態が悪化し、とうとう入院を余儀なくされました。「科学者としてのわたしの信頼性が、斧を手にした人々によって危険にさらされているが、このような事態はわたしにとって空恐ろしいことであり、わたしの家族にまでおよんだ悪影響は計り知れないものがある」と同教授。  
   
   これを見かねて、生物学者数名がトロンソン教授の擁護に立ち上がりましたが、同教授は政治家に情報を提供することになったときは「石橋をたたくように歩け」と他の研究者に注意を喚起しています。「マスコミや政治との対処の仕方について自分を守ってくれるプロ組織を持たない限り、政治の場でこの種の問題を提起することは十分に気をつけたほうがよい。自分で自分を守りきれない。」  
   
   そこで、先に述べた記事冒頭の「研究者が研究室から呼び出されて多事争論の的になっているトピックについて証言するように求められた場合には、十分慎重になるほうがよい」となるのでしょう。そういえば、日本でも民間出身の経済大臣が「抵抗勢力」の政治家から袋だたきに会いました。  
   
 
○言葉と表現
1: ヒトの余剰胚 = excess/surplus human embryo
2: 幹細胞株 = stem cell line
3: 生殖(目的の)ヒトクローニング = reproductive human cloning
4: 安楽死法 = euthanasia law
5: 罵倒; 激しい非難 = name-calling
6: 窮地; 苦境 = hot water
7: 胚幹細胞 = embryonic stem cell
8: 胚生殖細胞 = embryonic germ cell
9 : 多事争論/議論紛糾の話題 = a contentious/controversial topic
10: 抵抗勢力 = opposition forces; do-nothing groups
11: 幹細胞研究者/学者 = stem cell researcher/scientist
12: 斧を手にした人々→ people with an axe to grind
13: トロンソン教授の擁護に立ち上がる→ jump to Trounson's defence
14: 石橋をたたくように歩く→ step gingerly
15: 生傷をなめる→ lick one's wounds

 
   
 
“科学者としてのわたしの信頼性が、斧を手にした人々によって
危険にさらされている. ”
My integrity as a scientist has been put at stake
by people with an axe to grind.

 
 
   
 
 
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